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■ もっともっといばらき リポート132 取手市埋蔵文化財センター2008. 3. 4

訪問日;2008.3.1

とりで・つるし飾り祭り」を探してうろうろしているときに、大河ドラマ「徳川慶喜」のゆかりの史跡の県指定文化財「旧取手宿・本陣(染野家住宅)」の案内看板、それから「取手市埋蔵文化財センター」の企画展のポスターを発見!
寄っていくべ!

案内看板では確かこの辺り、と商店街から横にそれ、ものすご〜い坂道を上がると「本陣」の裏手に駐車場がある。
っと、この看板、・・・。
1月から3月まで屋根の葺き替え工事のため公開中止なんだって。
残念!
裏の駐車場から撮った写真です。時代劇な感じのする、鄙びた茅葺屋根の建物。撮影にはもってこいの建物だね。

で、「本陣」は不発に終わったので、続いて「取手市埋蔵文化財センター」へと向かう。
住宅街に位置するこの建物、庭先になにやらオブジェがたくさん。
87匹の豚さんのオブジェでした。

館内に入ると、右手に企画展示室。
小ぢんまりとした展示室では、第23回企画展「江戸時代の取手〜相馬二万石と谷原三万石」開催中(4月18日まで)。

まずは「T.戦国時代から江戸時代へ」。
戦国時代、取手市内に存した小文間城と大鹿城での敵味方分かれての合戦の様子が、後の文献「利根川図志」や「常総戦蹟」で紹介されている。「常総戦蹟」は明治時代の書物で、小文間城や大鹿城の写真も見ることができる。まあ、平城だからね、写真っていっても写っているのは・・・。
その後、豊臣秀吉の時代になると、浅野長政ら豊臣勢の侵攻に伴い治安が悪化。兵士の乱暴・狼藉・放火・非分をもうしかけること、麦を刈り取ることを禁止した禁制を必要とするほど酷かったんだろうね。
1590年に徳川家康が江戸城に入ると、取手周辺は守谷城に菅沼定政という人が一万石で入城し、守谷藩領となる。後に定政は旧姓の土岐に姓を戻し、以後土岐氏三代がこの地を治める。
その後旗本の伊丹氏の領知となり、甲斐国の大名となったため、相馬郡の領地はすべて甲斐国に移され、さらにその後、一部が幕府に戻されている。佐倉藩領となっていたこともある。
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の簡潔な手紙の作者として知られる本多作左衛門重次も江戸時代の初めに取手に3千石の領地を得ていて、取手周辺は後に大名となる一万石以上の上級家臣と、旗本になる中下級家臣の領地が入り混じるところだったんだって。

続いては、「U.大開発の時代」。関東郡代の伊奈半十郎忠治による治水工事に始まる。
1629年、小貝川と鬼怒川の分離によって小貝川の流水量が減り、岡堰や福岡堰が設けられ、流域の新田開発が進められていく。そして村が形成される。この新田開発によって生じたこの辺り一帯の穀倉地帯を「相馬二万石谷原三万石」、というのだそうな。
川の分離なんてものすごい大変なことをして新田開発をしてるし、現在でも福岡堰の用水を利用している地域もあるそうだ。昔の人の努力の上に、私たちの生活って成り立っているんだね。

取手は水戸街道の宿場としても整備され、発展していく。
水戸藩2代藩主徳川光圀公も取手を通って江戸に向かっているし、1687年には染野家が「本陣」として指定されている。
「本陣」、見学したかったなあ。

最後は「V.特集展示 宮本茶村(ちゃそん)」。
潮来出身の学者だそうです。当時の潮来村は水戸藩の領地だったため、斉昭公の藩政改革に尽くし、学問の業績を上げたことからも郷士として取り立てられた。郷士っていうのは武士に準ずる身分なんだって。
負債を抱えていた宮本家を建て直し、でも巨万の富を得るよりもその名と教えを後世に残そうとして私塾「恥不苦」を開いて教育に取り組んだ。さらに凶作に備えて義倉を設立し、天保の大飢饉の時には私財を投じて人々を救った。
ちょっと、すばらしいじゃん。こういう人、いたんだねえ。
現在、子孫の方が取手市内在住でこの展示が実現したとか。もっと宣伝しようよ。

過去の企画展のパンフレットもいくつか置いてあって、「森の祈り〜縄文人の心と文化」、「常総古墳文化の系譜〜日本国家の源流」、「国家の風景〜埴輪の描く古代」など、古代好きにはたまらない、興味のある展示も多い。
ホームページで企画展をチェックして、また来てみよう。「本陣」も!