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■ もっともっといばらき リポート319 茨城県立歴史館(7)2011. 3. 6

訪問日;2011.03.05

今年初めてのリポートだあ!2ヶ月ぶりのお出かけだア!
茨城県立歴史館」では特別展“頼重と光圀−高松と水戸を結ぶ兄弟の絆−”開催中。

光圀公といえば、
“ええい、静まれ、静まれ。こちらにおわすお方をどなたと心得る。前の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ。頭が高い。ひかえおろう!”
で、有名な水戸の黄門さま。水戸藩2代藩主にござりまする。
で、頼重(よりしげ)さんは黄門様のお兄ちゃん。ともに水戸藩初代藩主徳川頼房(よりふさ)公のお子です。

頼重さんが長男で、光圀さんが三男。
おや?光圀さん、三男坊なのに水戸藩の2代藩主になった。
一方、長男の頼重さんは後に下館5万石に封じられ、さらにその後、高松に転封になり、高松藩初代藩主となる。高松松平家は御三家の分家で、3代将軍家光によって取り立てられた親族大名という立場なんだって。これは保科正之を祖とする会津松平家と同じ。

なぜ、水戸藩は三男が世子となったのか。
将軍家光も弟と跡目争いをした。でも、家康の意向で、長子が相続するってことになったはず?にもかかわらず、家光と頼房は三男である光圀さんを世子に決定した。
頼重さんは疱瘡(ほうそう)という重病にかかっていた。
じゃあ、回復を待って世子を決めればいいじゃん!
当時、家光が3度目の上洛計画を発表。そのすぐ後、尾張徳川家の世子光友や紀伊徳川家の頼宣の奥さんが江戸に移り住んでいる。この頃、江戸への妻子居住義務を、外様大名以外にも広げる政策を採っていた。水戸徳川家の頼房としては、正室はいないし、せめて世子を江戸に置かなきゃ、という必要に迫られた。さらに、将軍家光への御目見も早急に済ませなきゃならない。でも、長男は重病中!
そんなこんなで、光圀さんが世子に決定したらしい。
この他、勢力のある側室の子頼元を擁立する動きがあって、それを阻止するために急いだ、なんていう説や、6才の光圀の利発さゆえに後継ぎに選ばれた、という説もあるらしい。

ともかく、光圀さん“兄をさしおいて”水戸徳川家の跡取りになったわけだけど、長じるにつれ事情がわかるようになり、このことは重荷になっていった。
その反動で、そしてもともとのやんちゃ気質も手伝って、光圀さんは“かぶき者”になっちゃった!足軽長屋などにも出入りしていた。色白、面長のイケメンだったらしいから、光圀さん大モテ!
だけど、光圀さんもいつまでもやんちゃをやっているわけにはいかず、兄ちゃんの子どもを養子にして自分の跡目を継がせることを条件に、家督を相続したんだよねえ。
まあ、このあたりのことは、TV番組などでも紹介されているので、ご存知の方も多いかな。

その後、5代将軍綱吉の将軍就任の際には尽力した光圀公だけど、綱吉の世子問題などで確執ができてしまう。自分の時のことがあったから、理に反するやり方がいやだったんだろうね。

世間一般に認識されている“水戸黄門”とはイメージが違う。旅していないし!
だけど、筋を通す、理を重んじる人だったようで、綱吉に対する遠慮ない物言いも江戸っ子に気に入られ、そういうところは、正義の見方、テレビのヒーロー“水戸黄門”と同じなのかもしれない。頑固だし!水戸の中納言(黄門)は7人いても、江戸の人々にとって水戸黄門といえば光圀公なんだってさ。

展示は、頼重公や光圀公の手紙や武具、肖像画、などなどです。光圀公のお面もある!
光圀公が日本人で初めて食べたと言われているラーメンやチーズの話、最古のメリヤスの足袋の話などについては、何も触れられていませんでした。まあ、“兄弟の絆”がテーマなので。
歴史館の展示の大体がそうですが、今回の特別展も子ども向けではありません。入館者のほとんどがご年配の方々でした。
子ども向けクイズなどもないので、親に連れられてやって来た歴史にまだ興味が持てないお子さんは、チラシに載っている展示品を展示の中からさがしてみましょう。

最後に一橋家の雛人形を見て、特別展の図録を購入して終了。

そうそう、本館に来る前に、旧水海道小学校に寄ってこようね。“いばらきの偉人たち”に関する週変わりのクイズがある。
旧水海道小学校内においてあるクイズの用紙にスタンプを押し、パネル展示を見てクイズ3問に答える。必要事項を記入して、本館に持っていくと、全問正解でクリアファイルがもらえる。間違えても、何かもらえるらしい。大人も参加できるから、是非とも行ってみよう!

さあ、“偕楽園”に梅観に行くべ!